布絵本と布おもちゃの部屋
今日は双子の孫がうちでご飯を食べる曜日で、好物のお好み焼きを焼いて出したんですけど、いつもより食が進まない。まあ、そんな日もあるよね、ってくらいの感じだったんですけど、ママがすまなそうに
「食べちゃダメだよって言ってたんですけど、ここにくる前にこっそりメロンパンスティック食べたみたいで」ということらしい。
「口の周りに砂糖がついてるからバレバレなんですけど2人とも『食べてない!』って言うんですよ。」
そこでママが機転をきかせて私が作った布絵本のうさぎ人形を持ってきて「このうさぎさんは本当のことがわかるんだ。さあ、うさぎさん、本当のことを教えてちょうだい」と言って、うさぎさんは双子の周りをクンクンしました。
「うーん、メロンパンスティックを食べてるね。食べた子、手をあげて!」と言ったら、2人とも手をあげた!らしい。
生身の人間(つまりママ)より、うさぎ人形!どーしてだろう。
そういえば、前も保育園の先生が、「パペットを使うとよく話を聞いてくれます。話を聞いてくれないママたちも、パペットで話すと聞いてくれたりするんですよ」と笑いながらおっしゃってました。
なぜだろう。人形は何を引き出してくれるんだろう。
私の作品のキットの大半は細かい作業が多くて、今の時代に合わないんじゃないかという不安をいつも抱えてる昨今。
まだキットにしてないものも半分以上あってキットにするのはとても大変で、やめちゃおうかなあとよく思います。
例えば『オオカミと7ひきのこやぎ』とか『赤ずきんちゃん』とか、オオカミが食べちゃうなんて、今の時代のママたちのニーズと合わないんじゃないかと思うと、キットにしても無駄かなあとか思ってしまう。
実際オオカミが食べて、お腹から出す仕組みが私としては超自信作なんだけど、そこが今の時代アダとなってるかも。
そんな中、久々キットの注文が入りました。
「ブレーメンの音楽隊」のつり飾りキット、と「恐竜10個セットのキット」
お便りメールに、「読み聞かせのボランティアをしてます。子どもたちとの距離が少しでも近くなればと思い、購入させていただきました」という内容でした。
嬉しかったです。
少ないけど、ニーズはあるかもしれない。そして作り手から遊び手に、何か伝わるかもしれない、
そんな希望の光が見えたお便りでした。
お正月に「歎異抄」を知りたいと、YouTubeで講座を5つまで聞いて、今はその後の残り5を待っている状態。
まだ、理解してません。他力本願の真意。でもぼんやりなんとなく前と違った認識には至っている、というレベル。
歎異抄を知りたいと思ったひとつの理由は、祖母が信じていた宗教で写経をしていた記憶があって、祖母への懐古の旅に近いです。
うううん、まだ理解できん、と探り探りのうち、いろんな情報が出てくるわけです。
司馬遼太郎が離島に持って行くとしたら歎異抄だとか。なんでだろう、って思って買ったのが古本ですけど、『司馬遼太郎と宗教』週刊朝日MOOK2017年12月10日発行。
そしたらいろんな宗教が登場してくる。そして果敢に「生きること、そして死ぬこと」に挑むお坊さんたちに出会いました。
法然、親鸞、蓮如、空海、道元、覚鑁、諸々。そして宗教を支えてきた人々。
途方もない問いに、生涯をかけて命懸けて向かい合ったお坊さんたち、っていうか哲学者。
それがいいか悪いか形式化されて、今の宗教の元になったりするんですけど、その元になった人たちの壮絶なる人生に背筋が伸びる。
だからと言って、お念仏を唱えるという信心は持ち合わせないまま、祖母はどこまで信じていたのだろう、と考える。
苦労した人だと聞きました。優しい人だったとも聞いてます。
私は無意識のうちに自分の利き手に合わせた布絵本になっている、らしいです。
生徒さんからの指摘で気がつきました。
例えばクマパペットに持たせる歯ブラシ。手に持つことができるように、歯ブラシの裏にマジックテープをつけるんですけど、その位置が左手に持たせるように作ってしまう。
全く無意識なんですけど。
今の時代、どっちに持しても大丈夫、だとは思うけど、マジョリティに合わせた方が無難。
でも大谷翔平のように左利きにも配慮すると、カッコいい。
ということで、今回泥棒のビールは右2人、左1人という大谷形式を取り入れてみました。
泥棒、左から「トンマ・ボス・気弱」
あ、トンマが左利きだったんだった!(私の勝手な設定)
日々いろんな人に励まされているんですけど、昨日は画家の須田剋太。
司馬遼太郎の『街道を行く』の挿絵を描いていた方。
60歳くらいから、その仕事を始められたということでした。
絵の迫力もそうだし、須田さんの佇まいもそうだし、全てに圧倒されたて、背筋が伸びた感じ。
亡くなられてもう三十年。最近故人によく励まされる。